香りの視点 No.003 「煙」

— 一説によると、火を使うことで生じる煙から、初めて人は香りを感じ得たと言われている —人が生きるために火を熾(おこ)し、そこで初めて香りを感じたということに興味を抱いた一井さん。 それまで、「香り」はあたかも人工的につくられたもののように思っていたけれど、 その起源のはじまりを辿ると、生活の中からごく自然に発した感覚だったことを知り、 新たな発見と同時に腑に落ちたのだそうです。 そうした一井さんの気づきに、なにを燃やしていたのだろうと、華雪さんの問いかけが続きました。香りの歴史のはじまりから着想を得たふたりが、「煙」をテーマにそれぞれの作品制作に臨みました。 ひとつのテーマから、それぞれがどのような表現に辿り着くのか。 どうぞお愉しみに。
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華雪「煙」 煤 , 墨 310mmx400mm

Kasetsu “Smoke” (Kemuri) Soot , Ink 310mmx400mm

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一井りょう「煙」 4×5 フィルム :アナログ(手現像・手焼き)

Ryo Ichii “Smoke” (Kemuri) 4x5 film : analogue (developed by hand)

 
7月13日墨工房「紀州松煙」堀池雅夫氏の工房にて、私はカメラを構え、静かに煙を待ちました。火入れをし、一気に立ち昇る松煙を体全体に浴びる。神聖な儀式のような、煤(すす)作りの仕事を見守りながら… そこは、まるで自然との戦場のようでもあった。写真「煤袋」一井りょう
 
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一井りょう「煙」 4×5 フィルム :アナログ(手現像・手焼き)

Ryo Ichii “Smoke” (Kemuri) 4x5 film : analogue (developed by hand)

 
華雪  煙歩いていたら、線香の匂いがした。 流れてきた先を辿ると、一軒の古い家の窓の隙間が目につく。 今どき見かけなくなった波ガラスの窓にカーテンは引かれていない。 近づいてこっそり覗いてみると、畳にタンスが一竿置かれただけの部屋には誰もいなかった。 線香の残り香がするということは、 そこにさっきまで誰かがいたということだ。 そして、線香をたくーーする機会はなくなって久しいことだと思った。「煙」の字は、かまどの煙が立ちこめて、煙抜きの窓から外に流れ出るかたち。 「かすみ、もや、きり」のようにすべて煙のような状態のものをいうと字典にはある。ときおり散歩の途中で立ち寄る目黒不動尊で、 本殿に上がる石段の途中にある香炉に、 誰かが供えていった線香が一束置かれ、煙を立てていた。ここで線香を供えたひとはなにを思っていたのだろう。 石段に腰を下ろし、しばらく煙を見つめていた。 急に強い風が吹き、線香は倒れ、灰が舞い上がった。 煙と灰がいっしょになって、辺りがすこし白く煙る。 ついこの間も線香の香りに出会ったばかりだと思ったとき、 近くの空で雷が轟きはじめた。 立ち上がって歩き出そうとすると、一瞬、線香の香りに包まれる。 ぽつぽつと降り出した雨にまぎれ、その香りは消えてしまった。 それから数日経って、お香屋さんを訪ねた。 「煙自体に香りがあるわけではないんです」 お店のひとは、そう言うと、記憶を探るような顔つきになり、 「でも煙といえば」とこんな話をしてくれた。 「仏教では香の香りを嗅ぐことが経典を聞くことと同じとされて、 そこから“香りを聞く”ということばがうまれたそうです。 そして、そこに立ちのぼる煙は供物のひとつとされているようで」 話を聞きながら、 不動尊の境内で線香の煙のゆくえを追って、空を見上げたことを思い出す。 煙は追いかける間もなく消えた。 家に帰って、線香をたいてみた。 その一本が燃え尽きる十分ほどの時間、立ち上っては消えていく煙を見ていた。 思いをこめた煙や香りも、やがて消える。 けれど消えてしまうから、次に線香をたくとき、 煙や香りと同じ目に見えない思いのありかを、 また確かめようとするのかもしれない。 香りが残る中、その線香の煤で「煙」と書いた。 香りの視点 No.003「煙」 終わり
 
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華雪「煙」 煤 , 墨 310mmx400mm

Kasetsu “Smoke” (Kemuri) Soot , Ink 310mmx400mm