「悲壮な者」のめざすところ
「ミスコイン」というものがある。
貨幣は本来、すべて完全に同じ形で作られなければならず、厳密なチェックを受けて市場に流れるが、その中にもわずかに、形の崩れた不良品が混じることがあるのだ。たとえば、穴がズレた五十円玉とか、片面に印刷がないお札などが、非常にレアな確率で混じっている。
こうした貨幣を文字通り「奇貨」として愛好する人々がいる。その世界では、穴のわずかにずれた50円が、何万円という価格で売買される。本来「間違い」であり「不具合」なのだが、そこに「価値」が発生するのだ。
これは、どういうことだろう。
「美」について考えているとき、このミスコインの「価値」のことが思い浮かんだ。
美しさとは、例えばミスコインのような、ある種の孤独な異常性なのではないだろうか。
ミスのないコインは「みんな同じ」である。
「みんなと同じ」であれば、安心安全である。そこには安らぎや親しみやすさ、あたたかさがある。「美しさ」と並べて語られる「かわいらしさ」は、「みんなと同じ」にも通じるところがある。おそろいがかわいい。三つ子ちゃんがかわいい。「かわいいこたち」は、アノニムな集団としてイメージすることができる。
一方「美しい人々」と言うときは、それぞれがバラバラに立っているように感じられる。全員が手を繋いで、似たような様子をしている、というイメージは沸かない。これはもちろん、私の個人的なイメージでしかない。でも、少なくとも「美」が、ある際立った価値のことを意味するならば、それは「みんなといっしょ」ではいられない。どこかちがっていなければならない。
ゆえに、「美人」は近寄りがたく、「かわいい人」は親しみやすい。
「美人」は、その人だけにしかない何かがある。ゆえに、それを見る人々に「自分とはちがう」という気持ちを起こさせる。憧れや羨望はわいてくるが、馴染むような和むような感じからは遠い。
「かわいい人」は、ある種の均質さと結びついている。美しい女優がちらりと失敗する姿を見せたとき「あの人も案外、親しみやすいところがあるのだ」「普通の女性なんだ」等と思われるのは、そういうことだろう。汎用品を愛用していたり、庶民的な趣味を持っていたりするのは「均質さ」に近づくことで、そこに親しみやすさが生まれる。
「みんなとちがう」ものを選び取るには、勇気が要る。
私たちは社会的な動物だから、集団に所属しなければ生きていけないのだ。均質で、目立たない存在で、集団に溶け込んでいるほうが安全だ。「美人」はうらやましがられるが、実際、妬まれたり排除されたりして、苦労をなめている場合も非常に多い。
「みんなとちがう」ものを選んだとき、それを周囲が「美しい」と認めてくれるとは限らない。突飛だとか、風変わりだとか、変人だとか、滑稽だと思われることすらある。みんなと違うものを選ぼうとするなら、そのリスクを負わなければならない。
更に言えば、「みんなとちがう」ものを選ぶのは、難しい。
みんなと同じものを選ぶならば、周囲を見ればすぐ、何を選ぶべきかわかる。しかし、人とは違ったものを選ぼうとすると、その基準を自分の内側に見いださなければならないからだ。自分の内なる感受性が「美しい」「価値ある」と認めたものを選ぶしかない。
美を感じとる感受性は、それこそ、美術品の真贋を見極める目を育てるように、自らの経験を通して学び育てるしかない。
目を鍛えること。勇気。集団から離れる孤独。
これらは、「美」という言葉が持っているイメージからは、かなり遠くに在るようにも思われる。意志を持ち、自立していて、勇ましくあることは、美の本質というよりは、美を生み出す上での前提条件のようなものだろう。
「力が慈しみとかわり、可視の世界に降りてくるとき、そのような下降を私は美と呼ぶ。」
(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」岩波書店刊より)
この一文は「悲壮な者たち」という章のなかにある。「悲壮な者」とは、「精神の苦行僧」だ。息を詰めるかのように胸を張り、野獣と闘争してきた彼は、まだ「美を学んでいなかった」。
私が書いてきた、孤独に耐え、自らを信じて感受性を磨き、ひととちがうものを選び取れる心とは、どこかこの「悲壮な者」に通じるところがある。
「そうだ、悲壮な者よ、いつかはあなたも美しくならなければならない。」(同上)
> #007 自分が自分であること(最終回)