香りの視点 No.005「薫ずる」

「薫」の字は、ふくろのなかの物を火にあぶってくゆらすかたちをあらわしていて、 そこから、漂ういい香りをいうようになったと字典にある。 「薫り」と書かれていると、いい匂いを連想しない? なんかそれって不思議だね。 隣を歩いていたAがそう言った。確かにそうかもしれないと思う。 「でもいい匂いと言っても、みんなそれぞれ思い浮かべるものは違うでしょう。Aとわたしでも違うだろうし。ことばでもなかなか伝わりにくいし、なんだかたよりないものだよね」と話しながら、コーヒーの焙煎を仕事にしている知人が開くコーヒー教室で以前あったことを思い出した。 コーヒーの香りをことばにあらわす、というのが参加した日の課題だった。 カップに注がれたコーヒーが三種類、テーブルに並べられた。 それを嗅いで印象をことばで書き留める――香りをことばにするなんて簡単だと、ペンを片手にカップに顔を近づける。 香ばしい匂いがする。次に隣のカップを手にしても、やっぱり香ばしい匂いがする。 それから頭の中でなにかスイッチが切れたような気がした。 香りをたとえることばは一向に出てこない。わたしのようなひとが他にもいるのか、知人が「ことばにするのが難しかったら絵でもいいですよ」と声をかけているのが聞こえる。 香りを嗅ぎながら、半ばやけになってとにかく手を動かし、丸や四角を描いてみたものの、どうもしっくりこない。そうこうしているうちに印象を発表する時間になった。 「土から掘り返したばかりのふきのとうの香り」、「買ったばかりのカーペットのちょっとケミカルな匂い」。発表がはじまり、食べ物だけでなく、さまざまな匂いに結びつけ印象を話すひとがいることに驚いた。そんなことばが出てこないだけでなく、共感できそうなことばや感覚も見当たらない自分に気づく。 結局わたしは、最後まで嗅いだコーヒーの香りをひとつもことばにできなかった。 ひとは「いい香り」を誰かに伝え、共有したいのかもしれない。けれどあの日、それはとても難しいことのような気がした。だからひとは、「いい香り」をあらわす字をつくったのではないか。目にすると、それぞれの記憶にあるいい香りを思い浮かべてしまう「薫」の字。その字が捉えどころのない香りそのもののように見えてきた。
senseofsent01_02
華雪「薫」 和紙,墨 20.5cmx27cm